重奏コンクールで考えたこと2011/07/02 01:59

コンクールを聴いていると、自然と自分なりの順位を付けてみたくなる。最初の頃はそれと実際の審査結果が違うと「えー、なんで〜」と思うだけだった。

いつ頃からか、それが食い違った場合、では審査員はどう言う点をより高く評価したのかを考えるようになった。自分が取るに足らないと思っている点を重く考えて評価していたら、当然順位が結構変わってくる。これが審査員レベルの順位付けだと、一部にどう考えてもこの順位はあり得ないと思う人は、過去にいた。言うなれば「この人は明らかに音楽、そして技術以外のわけの分からないポイントで評価している」と感じた人もいる。そのポイントが髪型なのか、ステージの歩き方なのか、使用楽器の木目なのか、それは本人にしか分からないが、これがコンクールとしての評価になるとそこには、自分の感覚とは違っても、それなりに納得のいくポイントがある。

ただ今回は改めて、その基準の難しさを感じてしまった。今回の重奏コンクールは最初、単に客としてリラックスして聞こうと思っていた。ところが、私はそれがもうできない人になってしまったのか、やはりどうしても点数を付けてみたくなる。そんな感じで付けた点数を順に並べてみるとこうなる。

Passione 67点(100点満点中)
Twinkle 62点
星の王子様 60点
Axis Duo 59点
高崎経済大学 50点
Petit Pino 45点
三上恵子・鈴木亜梨沙 採点不可

そして実際の順位は

Axis Duo
Twinkle
Passione


ここでまず思うのは、アンサンブルをきっちり合わせているかどうかというポイントを考えるとき、人数を考慮に入れるかどうかということ。アンサンブルは大人数でやればやるほど(指揮者がいない場合は)合わせるのが難しい。PassioneとTwinkleは両方とも5人。それに対して星の王子様とAxis Duoは2人。5人がぴったり合っているのと、2人がぴったり合っているのとで、5人の方が難易度が高いという理由で上に見るべきだろうか。それとも、ぴったり合って、それからが音楽なのだから、何人で合わせようと、ぴったり合ったところが出発点という見方もできる。

さらに今回は、選曲も大きかった。何せ短い自由曲だけのコンクールなので、曲の難易度が結果に大きく関わってくる。

星の王子様が選んでいた組曲「怒りの日」は、今回初めて聞いたが、とても表現しがいのある曲だった。このように曲自体がかなりの表現を要求している場合、結構表現しているつもりでもなかなか曲にならない。一方Axis Duoは、それほどの表現は要求されない曲を弾いていた。つまり、なんとなく弾いてもしっかりとした曲に聞こえるというものを選んでいたとも言える。

これはまるで、200点満点の難しいテストに果敢に挑んで、120点しか取れなかった人と、普通に100点満点のテストに挑んで90点を取った人と、どちらを上に見るかという感じだ。私は200点満点に挑んだ方をかろうじて上に評価し、安易に100点満点に挑んだ方は出来が良くても下に評価した。でも普通に考えたら、要求に対する満足度が上ということで、100点満点中90点が上なのだろう。

こういうことに加えて、Passioneの選曲が昨年と同じであり、昨年に比べれば確かに進化しているものの、1年あったらもっと行かないか?と考えたら、Passioneの評価が落ちてくるのも理解できる。

なんだかんだと書いて来たが、大切なポイントは何が平等な審査と言えるのかということだ。背の高い人と低い人に平等にベッドを与える場合、同じサイズのベッドを与えて、背の高い人はベッドの上に収まりきれなくなるのが平等なのか。もしくは背の高い人には長いベッド、背の低い人には短いベッドを与えるのが平等なのか。

その答えを出すのは無理なのかもしれない。そのどちらを選ぶか、それがまたコンクールごとの審査の特徴となるのだろう。

ちなみにこの重奏コンクールには、もっと別の大事なポイントがあるのが、昨年・今年と見て明らかに分かる。楽しみにあふれた演奏が基本的に上に評価され、神経質な演奏はどちらかというと嫌われるようだ。もちろんこれは、しっかりしたテクニックがあって、ちゃんと音楽が流れていて、さらに求めるポイントがあるとすればこれ、といった感じなのだが。


さて、どうまとめよう。別にまとめなくてもいい文章ではあるが、最後にこう書いておこう。国内コンクールで一位になるには、2つ有効な方法がある。

1. 世界レベルと言えるほどうまくなる

そこまではとても行けないという人は

2. そのコンクールの審査員が喜ぶ演奏をする

注意として、ある一定レベルまで行っていない人はどんなに頑張っても一位になれないのが普通。一定レベルに達したら、2の方法を使えばより早く一位になれるのだろうということ。でもそれ以上のレベルに行ってしまえば、もうどんな演奏をしても一位になるのかもしれない。

ということで皆さん、審査員の好みや考え方によって左右されるレベルではなく、もっとずっと上まで行っちゃってください!

7月23日は2011/07/11 08:03

クアトロ・パロスのコンサートがあり、そこで新しい4重奏曲「夢」が初演されます。ごく普通に聞きやすい、ロマン派中期くらいの感じの曲です。また、ディアンスの「ハムサ」も珍しく全曲やるようなので、是非皆様お越し下さい。

クアトロ・パロス ギターコンサート
日時:2011年7月23日(土)開演18:00 (開場17:30)
場所:大倉山記念館ホール(東急東横線「大倉山」駅徒歩7分)
料金:前売2000円
出演:高橋 力、楠 幸樹、萩野谷英成、斉藤泰士


ちなみにその日にはこんなのもあります。
栗田和樹ギターリサイタル
7月23日(土) 開場:18時半 開演:19時
会場:ティアラこうとう小ホール
チケット前売り:3000円
お問い合わせ:03-5603-2069
E-MAIL: agc@auranet.jp (アウラ音楽院本部)

詳細;http://www.guitarschool.co.jp/archives/4066

私も非常に行きたいのですが、どう考えても両方には行けないのですね〜。クアトロ・パロスによる私の曲の初演よりこちらが魅力的だと思う人は…、

こちらに行けばいいさ!


ついでながら、今週の金曜日は、モイスィコス国際ギターコンクール以来の貴重な友人である、クラシックギター界の期待の若手、ウィーン留学中の熊谷俊之君が
現代ギター社GGサロンで一時帰国記念コンサートをやります。
7月15日(金)19時〜(18時半開場)
一般3500円(前売3000円)
学生3000円(前売2500円)
とてもお勧めなので、こちらも是非聞きに来てください。

熊谷俊之コンサート2011/07/16 11:01

なんというか、、、素晴らしかった。

初めて聴いたのは約5年前で、そのときでも数音聞いただけで「こいつはうまい」と思ったものだ。それが今、そこからはるかに進化して「こいつは芸術家だ」とはっきり言えるような演奏になって来た。そして、この5年間の彼の変化を考えると、これからもどんどん変わり続けて行くのだと思える。もしかしたらこの先、世界的な芸術家に育つのかも知れない、と言ったら言い過ぎだろうか。

世界的に見れば、もっと指が動くとか、もっと表現力があるとかいう若手ギタリストがいろいろいるだろうが、彼の持つ魅力はまた違う次元にある。あの音のきれいさと丁寧さ、かっちりした音楽の作りは、なかなか他のギタリストには見られないものだ。このまま道を踏み外さずに、育って行って欲しい。

そんな彼が、私の《祈り〜東日本2011》をアンコールで弾いてくれたのも嬉しかった。早速現代ギター社に楽譜データを渡すことになったので、近々掲載されるだろう。ちなみに今回彼にもらった感想を元に、ちょっとだけ書き直したデータを渡す予定だ。

この曲は、今回のような天災・人災が二度と繰り返されないように、人々が平和に暮らせる世界になることを祈るもの。今回亡くなった方々、そして今でも二次災害で亡くなり続けている人たちのために作った《東日本2011〜鎮魂歌》と共に、長く弾き継がれて欲しいものだ。

YouTubeで私自身が演奏している《祈り〜東日本2011》

《東日本2011〜鎮魂歌》の初演の様子

自分はギタリスト作曲家ではなかったのだと2011/07/24 19:08

今日また、つくづく思った。今日は自分の中でもかなり古いソロ曲を、人前で弾くため手直ししていた。この曲は大学生時代に作ったもの。もちろんオリジナルもギターで弾くのが「不可能」というわけではない。しかし、このバージョンを音楽的に弾くのは至難の業だろう。あの当時の自分は、「プロのギタリストならこれくらいは軽々弾けないとダメ」と思っていたが、それは間違いだった。そしてその間違いを正してくれる人が周りにいないまま、私はその当時を過ごしてしまっていたのだ。

当時すでに山下和仁がいたが、彼ならオリジナル版をそのまま弾けただろう。ただ彼にしても、それを音楽的に弾くのは難しかったと思う。この曲の発想をそのままピアノで実現した「3つの感傷的な小品」を今このURLで公開している。一曲目がそれだ。
http://www.spiritmusic.net/secret/4873h846s.htm

こんな他愛のない曲でも、ギターで弾こうと思うと、和声を充実させるのが非常に難しい。これを1997年に結構考えて、ギターで弾きやすくした版がある。今日はそれをさらに手直ししていた。そして思ったのが、あの当時それなりに考えて、本当に弾きやすくしたつもりだったが、それでもまだこれだけ直すところがあるのだということ。言うなれば、こんな感じだ。

オリジナル版:ギターで弾けなくはない
1997年版:ギターで比較的楽に弾ける
2011年版;ギターで、この楽器の良さを出しながら弾ける

この10年。私はギターの練習を再開し、この楽器を改めて学び始めた。その結果、かつてギターを止めるきっかけとなったジストニアも治って来て、なんとかギタリストらしい発想ができるようになるまでギターに親しむことができてきた。それが作曲にうまく現われてきているわけだ。

ブランクがあったとはいえ、何を今更、と思う人もいるだろう。自分がこうした「ギター寄り」の考えを持てなかった背景には、私が元々クラシックピアノ、そしてポピュラーミュージックから音楽に入っているということがある。その目から当時のクラシックギターを見ると、「他の楽器なら音大にも入れないようなレベルの人たちが、コンサートをやったりレコードを出したりしている」というのが正直なところだった。ジョン・ウィリアムスに驚嘆していた人がたくさんいたが、私的には、ジョン・ウィリアムスくらいが最低限のプロテクニックであるべきという印象。むしろ彼にブリームのような音楽性がないのが非常に不満で、一方ではブリームの指がジョンのように動かないのが不満で、そんな時代だった。だからその当時に、例えば今の自分のような人が「これはギターで弾けなくはないけど、これでは音をつなぐのが至難の業です。ここをこう変えて、ここはこうして、こちらは…」などと言ったら、当時の自分はこう言ったことだろう。

「それはあなたが弾けないからそう思うだけで、この楽譜で十分です。逆にこんな楽譜も弾けないようなら、クラシックギターに未来はありません」

そんな自分もやっと、「ギターの現場」から曲を見て、手直しができるようになってきたのかも知れないと、今日しみじみ思った。