最近の指と先週の週末にあった3つのコンサート2010/06/06 17:25

今までは指を壊した人特有の変な、その場限りの運指だったので、それを楽譜に書き込むことは無かった。でも今、ついに運指を書き始めた。

今までは、また指がおかしくなるかも知れないので、積極的に二重奏を練習しようとすることは無かった。でも最近、二重奏の楽譜を大量に買い込んだ(2万円以上!)。

つまりそれだけ指が良くなって来ているということ。
嬉しいことだ!



それはさておき、先週の週末に三日続けてギターのコンサートを聞きに行った。


金曜日は井上仁一郎君。
アルカス、プジョール、フォルテア、ファリャという、オールスペインもののコンサート。音と響きを非常に大切にする感覚が、前よりもずっと強まっているように聞こえる。特に「タレガ讃歌」は絶品だった。ただ、プジョールの「セギディーリャ」のような曲では、音・響きが多少おろそかになってもいいから、もっと軽快さや、下手すると大道芸人的な、大げさな表現があってもいいような気がした。
ちなみに彼は、それなりの場所で最初から最後まで一人だけで演奏するのは、これが初めて。いわばデビューコンサート。そうした初陣ならではの、ペース配分ミスが感じられた。しかしそんな演奏を聞くのも、これはこれで貴重かも知れない。

土曜日は山田岳君。
最近改めて現代音楽は嫌いと思っていたが、このコンサートは邦人作曲家の現代曲だけ。1,2曲目はやはり好きになれない。ところが3曲目以降はとても面白かった。これなら、「面白いのがあるから一緒に聞きに行こう」と人を誘える。もう一度聞いてみたい現代音楽に久々に出会った。もちろん演奏も素晴らしかった。ただ、いわゆるクラシックギターの演奏とはちょっと違う、いわば別ジャンルの演奏という気がするが。
そういえば、一曲目の「シークレット・ソング」をこれだけ感情的に弾く演奏を初めて聴いた。とは言っても、やはりこの曲のどこに「美」を見いだせば良いのか、私には全く分からなかった…。この手の曲はたくさんの音色を使い分ける、繊細な美音による演奏の方が、もっと美的になるのではないだろうか。ブリームのような人が弾いたら、この曲の「美」が少しは見えてくるのかも知れない。

日曜日は遠藤峻君。
プログラムは名曲コンサートという感じ。まず最初に感じたのは、やはり彼の演奏にはハートがあるということ。創意工夫に満ちていても、それが「頭」から出ている感じはせず、心に結びついているのが分かる。創意工夫に満ちた演奏はとかく小手先になってしまい、心の伝わって来ない演奏になりがちな人が多いが、彼にはそれがないのが嬉しい。
でも、ここぞというときに、訴えかけるパワーが足りなく感じるのがちょっと残念。もっと、「少しは破綻しても構わない」くらいの思いっきりがあっても良いのではないだろうか。とは言え、彼も井上君と同様に、フルコンサートを最初から最後まで一人で弾くのは初めて。それにしては落ち着いて、安定しているように見えた。これからが楽しみな逸材だ。


皆それぞれに長所も違って、これからが楽しみだ。

「悪魔の奇想曲」考2010/06/09 23:09

先日、遠藤峻君が「悪魔の奇想曲」で、セゴビアによってカットされた部分を弾いていた。それに触発されて、最近ジラルディーノ版とセゴビア版を比べながら、自分自身の版を作っていた。

セゴビアの改訂には大きく3種類ある。
1. テクニック上の理由による変更
2. ギター的効果を求めた変更
3. 音楽的理由による変更

前半で目につくのは「1」の理由による変更。テデスコの初稿に基づいたジラルディーノ版には、出来るなら活かしたい音がたくさんある。特に67小節からのVivace e ritmicoにある7度の和音の連続はなんとか拾ってあげたいところ。

でも、、、無理。。。

これを原譜通りに、しかもこの音楽が要求する速度で弾けるギタリストは、まあ、今ならそれなりにいるだろう。でもその速度で、音楽まで作りながら弾けるギタリストは、世界でも一握りしかいないと思う。そしてここで思うのは

「この音はそこまで必要なのだろうか?」

という疑問だ。まるで私の昔の曲を見ているようだ。
昔の自分ならジラルディーノ版に軍配を上げていたと思う。しかし今なら、セゴビアの改訂を指示する。大半はそこまで難しい音ではなくて、ちょっと頑張れば弾けそうな音が多いものの、その音を守る利点と、それによる大変さで音楽が作りにくくなってしまう弊害を考えた場合に、皆、弊害の方が大きく見える。テデスコは相当に不満だったろうが、これはやはり、ギター曲である以上しょうがないことだろう。

そんなセゴビア版にも、やはり原典に戻したい部分は存在した。トレモロ部分のベース音は原典通りのGで行きたい。トレモロに至る前のフレーズについては悩むところだ。セゴビアはおそらく、同様なフレーズが続くことを嫌ってこうしたのではないだろうか。ここは両版とも優劣付けがたいが、優劣がつかないなら、ここも原典通りに戻したいと思う。なお、159小節に、セゴビア版の浄書間違いを見つけた。ここは原典版から変えるつもりはなかったと思う。

トレモロが終わってからのフレーズは、「2」と「3」の理由による改訂が目立つ。この改訂はテデスコも納得だったのではないだろうか。2つの版を見比べると、まるで学生の作曲した楽譜が、その先生によって直されたように見える。この辺の改訂に関しては、私は確実にセゴビアに軍配をあげる。

最後の方に、セゴビアによってかなりカットされてしまった小節がある。遠藤君はこれを弾いていたが、私は初めてジラルディーノ版を見たときから、そして今でも、このカットには賛成だ。理由は単に、その方が美的に感じるから。オケのような、音色をたくさん使えて、音量の差もすごく大きな「楽器」であれば、このフレーズも成り立つだろう。しかしギターでこのフレーズを「聞かせる」のは、かなり挑戦的な、不可能に近い試みであると思う。

そして最後。「ラ・カンパネラ」の部分は原典にはない。そこには単に「ミ」の同音反復があるだけ。まるで「ここに何らかのパガニーニの曲を入れる」ための空き地にまで見える。ただ、ここに「ラ・カンパネラ」が入ったことを、テデスコが快く思っていなかった節はある。とは言え、セゴビアがこの曲を、パガニーニ讃歌として依頼したのは確か。そして、原典の謎の同音反復に「La Campanella」と書いてあるのも事実。ここに実際、「ラ・カンパネラ」のメロディーを入れたのは、2人とも納得の上だったと思いたい。私はこの挿入に賛成だ。というか、原典版のこの部分は、全然意味が分からない。

と、いろいろ書いて来たが、現状のギター界では基本的にセゴビアの改訂に賛成だ。後半はかなり無条件に賛成。中間は少し原典に戻したい。そして前半は、涙をのんで賛成。前半に関して、原典の捨てがたいところをすべて活かした版を作っても、ギターで普通に弾かれるようになるのは、このままギターの演奏技術があがって行ったとして、早くても20年後くらいだろう。


最後に、すごく珍しい「悪魔の奇想曲」…
http://www.youtube.com/watch?v=xIeE2BEZA5Y

同じ曲2010/06/12 09:14

ヴィヴァルディの曲をある程度多く聞くと、何でこんなにたくさん同じ曲を作っているの?という気になる。同様に、ある種の現代曲を聞くと、どうしてこんなに複数の人が、互いに同じ曲ばかり作っているの?という気になる。

まあ、こういう言い方は、日本料理はどれを食べても醤油の味しかしない、と言っている外人と変わらないと思うが、それでも、、、私はこの手の曲を味わう気にならないんだな…

2010/06/15 00:48

昨日、ギターが壊れて修理に出す夢を見た。

実は一週間くらい前に、同じようにギターが壊れる夢を見ている。そのときは壊れてすぐ目が覚めたので、「縁起でもない」と思った。
でも、今回修理に出せたからそれで良しとしようか。しかも修理代は2万円に負けてくれると言っていたし。
もうしばらくしたら今度は、ギターが直ってくる夢を見るのだろうか。

夢は不思議だ。

この夢に呼応するかのように(?)某ギター四重奏団のために書いた「夢」という曲が、ついに仕上がった。渡すのが楽しみだ。

谷辺昌央とYan DepreterのCD2010/06/20 11:53

谷辺昌央さんの名前を初めて聞いたのは二年くらい前。とてもうまい人だと何人かが言うので、Youtubeで検索してみた。そしてバリオスのワルツを聴いたのだが、正直「確かにうまいけれど、取り立てて騒ぐほどには感じられない」というのが印象だった。

最近また、ある人が谷辺さんの大ファンだとか言っていたり、11日に、実は友人と同門だということが分かって初めて話をしたりして、その翌日、タワーレコードでのミニライブを聴きに行くことになった。そこで演奏されたのはブローウェルの《舞踏礼賛》、ピアソラの《5つの小品》から二曲、そしてヒナステラの《ソナタ》。この《舞踏礼賛》を聞いたとき、「こんな素晴らしいギタリストがいたんだ!」と思った。曲に対する洞察がとても深い。すごく考え抜かれているのに、それが小手先の技とはならず、感情表現に結びついている。頭と心、その両方をここまで満足させてくれる《舞踏礼賛》を聞いたのは初めての体験だった。

ヒナステラの《ソナタ》は、あまり好きな曲ではないが、とても引き込まれる演奏だった。その場でCD「Acentuado」を買って、後からよく聞いてみたら、他の人の演奏よりもかなり演奏時間が短い。特に1楽章は、最初の和音の連続を倍のテンポくらいで弾いている。そういった、作曲者のテンポとは違う、彼なりにリセットされたテンポ感が、非常に心地よく響いたのだろう。この曲で、最初から最後までだれないで聞けたのは、彼の演奏が初めてだった。たいていは退屈に感じてしまいがちな1、3楽章が、またひときわ面白い。ちなみに、終楽章で今までに聞いて来た演奏、と言ってもせいぜい6,7人だが、それらはどれもすべて「あれっ。終わるの?」みたいな終わり方だった。しかし彼の当日の演奏は「終わるよ。準備して。さあ、もうすぐだよ。行くよ。行くよ。来たー!」みたいな終わり方。こういう演奏をされると、思わず興奮してしまう。「Acentuado」では残念ながらそこまでの攻め込みはないが、一聴に値するCDだと思う。


CDと言えば、前々から聞きたかったYan Depreterの「Sonata」のCDを、先日GGショップで見つけた。この中のブローウェルの《ソナタ》は正直、、、ヤバい。。。東京国際の本選で聞いたときよりもさらに良い。

今までに聞いて来たギター演奏に対しては必ず、「何か面白くない。いったいどうしたらもっと良くなるんだろう?」と思う瞬間があった。それはどんな名手のどんな名演でもそう。しかし彼のこの《ソナタ》に関しては素直に「まいりました」と思うしかない。この人のアーティキュレーションは、もう少しやると完全にやり過ぎ、くらいのギリギリの線にあると思う。それがうまく出たのがこの曲の演奏だろう。そういえば、そのアーティキュレーションのおかげで、3楽章の最後に2楽章がより強く思い出され、「実はこんな風につながっていたんだ」と、この曲を再発見した。彼の演奏はちょっと聞くと、感性のおもむくままに弾いているような印象を受けるが、実はかなり考えられているのが分かる。

もし私の指が思う通りに動いて、この曲を練習していたとしたら、この演奏を聞いた後でもう練習するのを止めるだろう。そしてこの曲には二度と手を出さない…。

とは言え、彼も万能というわけではなく、このCD全体が手放しに良いとは感じない。特にバッハに関しては、もっと良い演奏がすぐに見つけられそうだ。でも、ホセの《ソナタ》での、彼の歌い方は非常に心地よいし、ポンセの《ソナタ第3番》も悪くない。ただ何と言っても、ブローウェルの《ソナタ》がすごい。この一曲のためだけでもこのCDを買う価値はあると思う!